【イベント】 ゲストの戸塚 哲也さんとは!?…2010.6.19 日本×オランダ 観戦イベント  - ”目黒のジダン”こと佐とうひできのブログ

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【イベント】 ゲストの戸塚 哲也さんとは!?…2010.6.19 日本×オランダ 観戦イベント 

目黒のジダンです。

さぁ先日発表致しました6月19日のイベント
「元日本代表・戸塚哲也さんと観るW杯」ですが…
Jリーグ創設以降のサッカーファンやサッカーギャルズの方には

「戸塚哲也さん」
についてご存知でない方もいらっしゃると思います。

そこで今回は戸塚さんを軽~くご紹介させて頂きます。

以下、ウィキペディア参照。

★-----★-----★-----★----

戸塚 哲也 とつか てつや

戸塚哲也_1

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

生年月日 1961年4 月24日(49歳)
出身地 東京都
身長 174cm
体重 70kg
選手情報
ポジション MF
代表歴
出場 18
得点 3

戸塚 哲也(とつか てつや、1961年4 月24日 - )
は、日本の元サッカー選手、指導者、解説者。
東京都出身。都立世田谷工業高校自動車科卒。
監督として地域リーグのクラブチームを3年連続で日本フットボールリーグ(JFL)に昇格させており、
『JFL昇格請負人』の異名を持つ。サッカー選手になっていなかったら、
「職業はレーサー」と自称するほどの自動車マニア。


<来歴>
 [ 日本リーグ時代 ]

読売クラブの下部組織で育ち、1979年4 月25日の東洋工業戦において、18歳と1日の若さで日本サッカーリーグデビューを飾った。これは当時の最年少出場記録でもあった。

1981 年にはスペイン・バレンシアCFにサッカー留学。帰国後に後楽園球場で行われたハレルヤ蹴球団との試合で30mのミドルシュートを決め、後の決定力あるFWの素質の片鱗をのぞかせている。

1983 年に監督に就任したルディ・グーテンドルフによってMFからFWへコンバート。ポジションの変更は当時読売クラブでエースFWであったラモスとの単純な入れ替えであったと評す向きもあるが、翌1984年に14得点を上げリーグ得点王に輝いている。

日本リーグ末期からJリーグ黎明期の読売クラブ/ヴェルディ川崎の黄金期を支えるエースストライカーであった。当時日本屈指のキープ力と称され、その懐深いドリブルは相手DFから球を奪われることは殆どなかった。

[ 日本代表 ]


1980 年、19歳の時に日本代表選手に初選出。風間八宏、金田喜稔といったテクニシャンと共に中盤を形成したスペインW杯予選では中国に敗れ予選突破は成らなかった。

その後も代表へ度々選出され、背番号10番を背負う事もあったが、1983年に個人的な理由から辞退した事で、それ以降代表へ招集される事は無かった。しかし1985年に行われたメキシコW杯最終予選では森孝慈監督の強い要望もあり、日本へ帰化したジョージ与那城と共に最終予選東京・ソウルでの韓国戦2試合に出場した。

[ J リーグ開幕以降 ]

読売・ヴェルディ一筋にプレーを続けた戸塚だが、Jリーグ開幕以降は三浦知良ら現役代表選手を多数擁するクラブの中で出番を失う様になった。そして1994年に出場機会を求め、当時ジャパンフットボールリーグに在籍した柏レイソルにレンタル移籍、その年のJリーグ昇格に貢献した。その後、1996年に Jリーグ入りを目指していた栃木県社会人リーグのワールドブリッツ小山(現在休眠中)に移籍。監督兼任でプレーし、天皇杯の栃木県代表へと導いた。

[ 指導者として ]

現役引退後はサッカー解説者、指導者として多方面で活躍。1997年にはビーチサッカーの日本代表として世界大会に出場。2001年には東京MXテレビのFC 東京ホームゲーム中継のメイン解説者を1年間務めた。

2006 年2月からは東海社会人リーグ1部のFC 岐阜監督に就任。東海社会人リーグ1部で優勝、全国地域リーグ決勝大会で2位に入り、ホンダロックとの入れ替え戦を制してJFLに昇格した。2007年も昇格初年度ながら開幕ダッシュに成功し首位を独走した時期もあったが、次第に失速し、2007年6月にはチーム内で方針が分かれ、またS級ライセンスを持っていないことから解任された。

2007年9月、FC Mi-O びわこの監督に就任。当該チームでの正式な初采配は第87回天皇杯全日本サッカー選手権大会第2回戦で、対戦相手は柱谷幸一監督率いる栃木SCとの対戦であった。同年10月、全国社会人サッカー選手権大会では決勝で矢崎バレンテを破り、チームを初優勝に導いて全国地域リーグ決勝大会への出場権を獲得した(FC Mi-O びわこは同年の関西リーグで2位になり、全国地域リーグ決勝大会の出場権を逃していた)。同年11-12月の地域リーグ決勝大会でMi-Oは3位となり、 2008年からのJFL参入を決めた。

2008年1月、戸塚はMi-O監督を退任し、FC町田ゼルビアの監督に就任。町田は関東サッカーリーグ1部で優勝し、戸塚は3年連続のJFL昇格成功を目指して全国地域リーグ決勝大会に参加することになった。そして、FC町田が地域リーグ決勝大会で優勝しJFLへの参入が決まるとともに、自身も異なるチームで3年連続でJFL昇格に導いた。

2009年も引き続き町田を指揮。6位に終わり、同年シーズン終了を以って退任。

戸塚はJリーグで指導するのに必要なJFA 公認S級コーチライセンスを取得しておらず、岐阜と町田の後任監督はいずれもS級コーチライセンス取得者が就任した。


[ その他 ]

サッカー指導の傍らで、戸塚はヴェルディの練習場に近い川崎市麻生区で炭火焼の店「酔臥居」を経営し、そのマスターでもあった。同店で雑誌取材やヴェルディ関連のTV収録(NTV 『ヴェルディが好きだ』等)が行なわれたこともあったが、監督業が多忙となり現在は閉店している。


<個人成績>
国内大会個人成績
年度/チーム名/リーグ名/試合数/得点
1979 読売 JSL1部  9 2
1980 読売 JSL1部 17 2
1981 読売 JSL1部 18 3
1982 読売 JSL1部 18 6
1983 読売 JSL1部 18 6
1984 読売 JSL1部 16 14
1985 読売 JSL1部 22 4
1986-87 読売 JSL1部 20 3
1987-88 読売 JSL1部 18 0
1988-89 読売 JSL1部 22 5
1989-90 読売 JSL1部 18 8
1990-91 読売 8 JSL1部 22 10
1991-92 読売 8 JSL1部 21 4
1992 V川崎 - J - 10 0
1993 V川崎 - J 10 1 6
1994 V川崎 - J 7 0 0
94 柏 46 旧JFL 17 4 1
1996 小山 栃木2部A

総通算 273 72


その他の公式戦

* 1990年
o コニカカップ 8試合3得点
* 1991年
o コニカカップ 5試合2得点
* 1992年
o ゼロックス・チャンピオンズ・カップ 2試合0得点

<代表歴>

出場大会など

* ワールドカップスペイン大会予選
* アジア競技大会(1982)
* ワールドカップメキシコ大会予選

<試合数>

* 国際Aマッチ 18試合 3得点(1980-1985)


日本代表 国際Aマッチ
年 / 出場/ 得点/ 出場/ 得点/ 出場/ 得点
1980 4 0 2 0 6 0
1981 8 0 12 2 20 2
1982 4 3 6 0 10 3
1983 0 0 0 0 0 0
1984 0 0 0 0 0 0
1985 2 0 0 0 2 0
通算 / 18 / 3 / 20/ 2/ 38 / 5

<得点数>

年月日 開催地 対戦国 スコア 結果 試合概要
1 1982年6月2日 日本、広島市 シンガポール 2-0 ○ ジャパンカップ
2 1982年7月18日 ルーマニア、ブカレスト ルーマニア 1-3 ● 親善試合
3 1982年11月23日 インド、ニューデリー 南イエメン 3-1 ○ アジア競技大会

【1985.10.26 メキシコW杯'86 最終予選 日本×韓国 … 木村和司のフリーキック】

※ その伝説のフリーキックを呼び込むドリブルを仕掛けたのが当時の戸塚さんです!


【コカ・コーラCM (1993) …0'17に一瞬出てくる選手に注目です!】

※当時、胸にオフィシャルスポンサーとして「コカ・コーラ」のロゴをつけていたベルディ川崎のなんともバブリィなCM



日本リーグ、Jリーグ、JFLを通算すると、
合計273試合に出場!

Jリーグ以降に次々と誕生したスター選手でさえも、200試合に届かずキャリアを終えるなか、
この記録はすごいです!




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