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【日記・mixi】心の叫び …の巻 第一話

―― 最後まで涙はなかったんですよね?

N 僕は勝っても泣きませんね。もちろん、負けても泣きませんけど…

―― じゃあ、サッカーで泣いたことはないんですか?

N 勝敗で泣いたりはしないけど、実は、泣きそうになったことはあるかもしれない。ゲームの途中、イメージしているサッカーと現実のサッカーとがあまりにも食い違ってくると、悔しくて叫んじゃうことがあるんです。他の選手にも自分にも。叫んでも叫んでも、いいリズムに戻らない時、絶望的な気分になる。それでも叫ぶのをやめられなくて、ちょっと涙が滲んじゃうことがある。本当のことを言えば、少し泣いたりしている時もありましたよ。ゲームが終われば、すぐに冷静に戻るんですけどね・・・・。

 
     ~ ジョカトーレ 小松 成美 著 (原文引用)~

Nとは・・・
今日、引退を発表した


     中田英寿である。


この文は彼が20歳の頃のインタビューの抜粋である。



引退発表があったその日の朝、私はこの本をたまたま
読みながら出勤した。

昨日、以前より購入していた書物を開き、流し読みをしていた。その続きを本日より異動となった通勤への暇つぶしと思ってページを進ませていたのである。

そこでこの一文で私の流し読みがストップした。

何度も読み返してしまい、
思わず付箋をはっていた・・・・。

   なぜか?


日本時間6月23日・早朝6時に見かけたあのシーンを思い出した。

交換したブラジルのユニフォームを顔に覆いながら、グランド中央に寝そべっていたあのシーンが目に浮かんだからである。




…実はここまで私は今回の日本代表へのここでの記載を避けた。いや、避けたのではなくなぜか書く気になれなかったというのが本音であろう。
私が感じた、思っていたことは既に各マスコミが掲載していたのであえて自分がそれにかぶせることはないなぁと思っていたからである。

しかし、それと共にマスコミの論調の一貫性のなさに嘆きもした。

ここまで数回に渡り、この項に私なりの日本代表への思いをつづって来た。それは主にジーコ批判に集中していたように思う。

そして戦い終わったあと残念ながら
予想通りの結果になってしまった。

戦い以後の各マスコミの論評は主に
今更ながらの結果論ばかりが
名をつらねた。
日本のマスコミの脆弱ぶりを
まざまざと見せ付けられた格好となった。

もちろん
試合終了後の中田の行動もかっこうの餌食となった。


 「あぁ~あ、おいしいネタを与えてしまったな・・・・」

私があのシーンを見たときに懸念したことが
その後すぐに起こった。

試合後のインタビューを皮切りに、
涙を流したであろうあの姿に人々の注目は集まった。

下記はそのインタビューの映像である。

http://www.youtube.com/watch?v=HHp97_fN27g&mode=related&search=%E4%B8%AD%E7%94%B0%E8%8B%B1%E5%AF%BF

インタビュアーは中田から
何を聞きたかったのであろうか?

おおかたの予想はつく。
本心はわからないので推論はさけるが
これを見る限り、
インタビュアーは、
義務としての質問、
あまり意味のない質問をしているのが伺える。

彼のマスコミ嫌いは有名な話である。
しかしマスコミが嫌いなのではない。



  ”常識のない”マスコミがきらいなのである。



実際、この項の最初の一文は彼の信頼しているライターの文章である。心を開けるマスコミは存在する。
その表れでもある。

そしてマスコミへの露骨な態度、
その発端となったのが
デビューしてから一年後の96年9月、
ナビスコ杯準決勝・清水エスパルス戦の0-5
での敗戦での記事である。



  「わざとボールを追わなかった…」



これを期に彼とマスコミとの距離は決定的となった。

それ以降マスコミには口を閉ざし、
本心を発しなくなった。
前出の一文は”わざとボールを追わなかった”のではなく、


「負けていたので、わずかなチャンスでもあれば攻めるために、ボールだけを追いかけないで、前線に残って攻撃のチャンスを狙っていた…」

という意味で言ったという。

彼は当時19歳。

純粋な山梨出身の彼の心は
愚かなマスコミによりそれ以降、
開かぬ門となってしまった。

そして20歳で代表に選ばれた彼は
遺憾なく実力を発揮し、その年(97年)に行なわれた
フランスW杯アジア最終予選で
その才能、人気は不動のものにした。

しかしマスコミとの距離は知名度、人気、実力ときれいに反比例するように加速度的に開いていった。

そして迎えた98年W杯以降、
彼は活躍の場を日本から
イタリアへと移した。

それから半年後の翌年99年3月、


   私は当時22歳の彼に出会うことになる・・・。


       < この項続く >

              佐とう ひでき
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